


第4回:65歳雇用の現場で起きていること~7割が継続雇用を選ぶ理由と、第二種認定計画という縁の下の力持ち~ <連載>定年後再雇用制度の歴史と展望(全5回)

第3回:努力義務から完全義務化へ~3段階で迫る、我が国の高齢者雇用法規制の手法~ <連載>定年後再雇用制度の歴史と展望(全5回)

こんにちは、分かりやすさNo.1社労士の先生の先生、岩崎です!
2026年、労働基準法はおよそ40年ぶりとも言われる大きな節目を迎えようとしています。
報道で「労基法の大改正」という言葉を目にされた先生も多いのではないでしょうか。
この連載では全6回にわたり、なぜいま改正なのか、その答えを「歴史」からひもといていきます。
第1回は、すべての出発点である労働基準法の原点を確認します。
労働基準法が制定されたのは1947年、昭和22年のことです。
当時の法律が想定していたのは、工場で働く均質かつ画一的な労働者の集団でした。劣悪な労働環境から労働者を守るための強い規制、すなわち強行法規としての性格を色濃く持っていたのです。
ひとつ象徴的な数字をご紹介しましょう。制定当時、就業者に占める雇用労働者の割合は4割程度にすぎませんでした。残りの多くは自営業や家族従業者です。
働く人の半数以上が「雇われていない」時代であれば、雇用労働者向けの画一的な最低労働条件を一律に定めても、社会の実態と大きくずれることはありませんでした。「全員に同じ物差しを当てる」というやり方が、それなりに機能していたのです。
ところが、その後の日本社会は急速に姿を変えていきます。
産業構造はサービス経済化が進み、情報通信技術、いわゆるICTが飛躍的に発展しました。さらに少子高齢化により労働力人口の減少が始まり、働き方は急速に個別化・多様化していきます。
1980年代後半には、年間総労働時間1800時間の達成という政策目標が国家的課題として掲げられました。欧米に比べて長い労働時間を是正し、生活のゆとりを生み出すことが目指されたのです。
ホワイトカラー労働者が増え、女性の社会進出も進むなかで、工場労働を前提とした「時間による画一的な管理」は、しだいに実態との乖離を生むようになりました。
労働基準法はこの時期から、単なる「画一的な最低基準の強制」だけでは立ちゆかなくなりました。
求められたのは2つの要請の両立です。
ひとつは労働者の健康確保、すなわち「守る」こと。もうひとつは多様で柔軟な働き方の実現、すなわち「支える」ことです。
この「守る」と「支える」という2本の軸は、本連載を通じて何度も登場する最重要キーワードですので、ぜひ覚えておいてください。
働き方の多様化に向けた本格的な転換点となったのが、1987年、昭和62年の労働基準法改正です。
これは労働基準法の制定以来の抜本的な大改正でした。
改正の柱は2つあります。
第1の柱は、週の法定労働時間を48時間から40時間へと段階的に短縮する、強力な労働時間の短縮です。
第2の柱は、画一的な時間管理ではとらえきれない多様な働き方を許容するための、新しい制度群の導入でした。
背景には、第三次産業の比重が著しく高まるなどの社会経済情勢の変化があり、労働時間の規制をより弾力的なものにする必要があったのです。
具体的に導入されたのは、労働者が日々の始業・終業時刻を自らの意思で決められるフレックスタイム制、業務の繁閑に合わせて労働時間を調整できる3か月単位の変形労働時間制でした。
さらに、業務の遂行方法や時間配分を労働者の裁量に委ねる必要がある業務を対象とした裁量労働制、のちの専門業務型裁量労働制と、事業場の外で働き労働時間の算定が難しい場合の事業場外みなし労働時間制についても規定が整えられました。
これは、労働時間と成果が必ずしも比例しないホワイトカラーの知的労働や、サービス産業の発展という産業構造の変化に対する、法律からの応答でした。
労働者の自律性を一定の範囲で尊重する枠組みへと舵を切った、歴史的なパラダイムシフトだったと評価できます。労働基準法は昭和62年に、「守る」一辺倒の法律から、「守り、支える」法律へと、はじめの一歩を踏み出したのです。
次回・第2回は、1993年・平成5年から2008年・平成20年までを取り上げます。
バブル崩壊後の低成長期に、柔軟化と規制強化という「振り子」がどう振れたのか。
1年単位の変形労働時間制、企画業務型裁量労働制、そして月60時間超の割増賃金率引き上げまでをたどります。



